効果があった商品、サービスは?
足の矯正用のテープ効果がなかった商品、サービスは?
なし私の体験談
外反母趾とは、足の親指が小指側に曲がってしまって、その結果歩くたびに足に負担がかかり、痛みが発生するという病気です。
この外反母趾という病気によって発生する苦しみは、言葉にはしがたいほどの痛みでした。
人間の足は歩くための物ですが、その歩行を行おうと一歩踏み出したとき、親指が悲鳴を上げて私に訴えかけてくるようでした。
「私はもう歩くためには使えない」「歩かないでくれ」と
私は以前からウォーキングが趣味でした。平日ならばおおよそ3時間、休日ともなれば8時間という長時間をウォーキングで過ごすため、足の丈夫さには自信がありました。
しかし、その外反母趾は、じっくりと確実に私の側へと歩み寄っていたのです。
その異変に気がつき始めたのは、ある休日のウォーキングの最中でした。
家を出てからおよそ3時間、私は左の親指に違和感を感じました。その違和感を今言葉にするとすれば、「靴の本来あるべき位置に親指が無く、ズレている」といったものでしょう。
その日は気にせずウォーキングを続けましたが、それは誤りでした。
その翌日、ウォーキングをしようと玄関へ降りたのですが、足が僅かに痛みました。
この時点では「昨日の疲れが残っているから痛みを感じるんだ」と考えて、その日のウォーキングは中止して翌日ウォーキングをしようと考えました。
その翌日には、痛みもあまり気にならなくなったのでウォーキングに出かけました。
その日のウォーキングに出発してから1時間後、ついに決定的な瞬間が訪れてしまったのです。
私はその時、横断歩道を駆けながら横断していました。
そして、横断歩道を渡りきった後、足をひねってしまったのです。
そして、その直後、私は声にならないほどの痛みを感じ、その痛みが少しでも引いた後に、タクシーを使って帰宅しました。
それ以降、私の親指は歩くのを嫌がり始めてしまったのです。
その後、お医者様に見てもらったのですが、外反母趾であるということが判明しました。
その時、レントゲンズを見せてもらったのですが、その時のことは今でもはっきりと覚えています。
まず、私が目にしたのは、異常な曲がり方をした親指でした。
親指はもう片方の足と比べると、あきらかに直線ではない曲がり方をしていたのです。
また、それ以外の指も親指に押される形で曲がってしまい、足全体のバランスが崩れているようでした。
このままでは、到底以前のようなウォーキング生活に戻れないというのは明白でした。もちろん、このまま黙って待っているだけでは何も解決しません。
私は外反母趾の治療のためにテーピングによる矯正を行いました。
骨がもし間違った方向に曲がってしまったのなら、それを矯正して戻してしまえば痛みも引くはずです。
そして、そのような足の矯正のためのテープを購入し、私の外反母趾を治すための挑戦が始まりました。
初めのころは自宅でテープを巻くのにも四苦八苦していました。
最大の悩みは、「テーピングを巻くときのキツさ」です。
テーピングを強く巻きすぎれば、本来の位置よりもズレた場所で矯正されてしまう上、親指にも負担がかかってしまいます。
しかし、その逆に緩めすぎれば、矯正としての効果がなく、無駄骨に終わってしまいます。
この力加減を完全に会得するために、おおよそ5日間の日数が必要でした。
この5日間という修行時期を経て、私はしっかりと矯正用テープを巻くことが出来るようになったのです。
この矯正による治療中の最大の苦痛は、「いつものように足を使うことが出来ない」という点でした。
私は先に書いたとおり、いつもウォーキングをしていましたが、この矯正期間中にそのような事はできません。
また、足に過度な負担を与えないために、私はほとんど家に篭っていました。
このような日は、おおよそ2ヶ月程続きました。
そして2ヵ月後、ついにテーピングを外しても問題ないという言葉を聞いて、私はついにウォーキングを行う生活に戻ることが出来ました。
私の足は軽やかに大地を踏み、かつての歩けないほどの痛みがまるで嘘だったかのようです。
しかし、私ははっきりと覚えています。
たしかに、私の足はあの時、歩くことすらできない痛みを抱えていたという記憶を、はっきりと覚えています。
だからこそ、この痛みが引いて、また歩けるようになったという快感は、何にも引き換えがたいものなのです。
また、今回は比較的に軽度だったため外反母趾の治療はテーピングによる矯正で治りましたが、もしこれが更に重度であった場合は手術を行う可能性もあったと聞きます。
今、あの言葉をもいだすと、心の底からゾッとします。
だからこそ、私は足の痛みには敏感に反応し、以前のような過ちを繰り返さないように努力しました。
今では、私は3時間ウォーキングをして、休日には8時間のウォーキングを行っています。
以前よりも重く、重くなった、「歩けるという尊さ」をその全身でかみ締めながら。私は、今日、この時を歩いています。